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ヴェルディ歴代監督

・ここではヴェルディの歴史、いままで就任してくれた歴代の監督さんを特集したいと思います。いやね、こういうページ欲しいな思ったので自分で作っちゃいました。昔のサカマガやビデオを引っ張り出して調べたので、一部記憶と違う事もありましたねぇ。 もしかしたら、皆様も間違って監督の評価を下していたかもしれませんよ。ここで表記されているものはまぐの主観なので、まぐの独断と偏見をもってやっております。雑誌をうのみにしてる場合もあります。ただ、各年代ベストイレブンは試合出場数順になってます。 まぐの考えたベストイレブンは別ページの「ヴェルディアウォーズ」でご覧になってください。



初代監督松木安太郎
種類松木ひらめきサッカー
結果1993年サントリー:2位/12勝6敗
1993年ニコス:優勝/16勝2敗
1994年サントリー:4位/14勝8敗
1994年ニコス:優勝/17勝5敗
特徴 ・基本的にコンセプトは無く選手をころころと替える監督で有名。システムも練習無しでいきなり4バックから3バック、2トップから3トップに変えるばかりか、選手も新人抜擢(トップ練参加せずに)ばかりで1シーズンを通して固定することはなかった。 実はこれが「松木ひらめきサッカー」と呼ばれ、恐怖のどん底に突き落とす事になるのはもう少し先の話。実際、この頃から監督の評価は各雑誌で低いのに最優秀監督賞まで獲得し、Jリーグが根本的に間違ってると言わしめる結果に繋がった。
成績
1993年
・結果的にシーズンはサントリーシリーズ2位、ニコスシリーズ優勝、チャンピオンシップを制覇して年間王者で終わる。もし、93年のスタメンなどを知っている人がいたら、もう一度思い出して欲しい。最後まで固定されたスタメンが無いという事を。 若手抜擢もいい加減でJリーグでやっていけるのか?という新人も多数出た。ベテランも同じで動けないベテランも多く試合に出場した。93年の年末には若手がこぞって移籍したいと言わせる程、コンセプトが明確では無かったのだ。実際、菊原は浦和へ期限付き移籍した。
   *下記に93年の詳しい出来事を掲載。
成績
1994年
・桐蔭トリオと呼ばれたMF長谷部茂利、DF戸倉健一郎、DF廣長優志など新人を一斉に入団させる。そこそこ「松木ひらめきサッカー」で出番を与える。しかし、やはりスタメンを固定せずに戦う姿勢は変わっていなかった。後期にはネルシーニョをヘッドコーチとして招いたおかげで優勝で終わる。 チャンピオンシップには伝説となったラモスのループで年間王者へと輝いた。ただ、これが原因で松木安太郎は辞任に追い込まれる。二極体制という布陣だったが、権限はいささかネルシーニョに与えられていた為に松木は辞任。だが、実際は二年余りも稚拙過ぎる指導でラモス以下選手の中から出たものだったとも 言われている。
【1993、1994年ベストイレブン】   *クリックで開きます




1993年:Jリーグ開幕
・1992年、日本リーグ(JSL)最後の優勝を掴んだヴェルディ。何故か、その最後の優勝を遂げた監督であるペペ監督を12月に突然解任。そして、監督経験の無い松木安太郎の就任が発表される事になる。 この頃から・・・優秀だったはずのクラブが迷走を始める事になるのだ。

・93年2月、ワールドカップ一次予選のためにレギュラーが6人も抜けて合宿を行ったのだ。それまで、ヴェルディが発表した外国人選手は全部で4人。DFペレイラ、DFダビ、MFアモローゾ、FWパウリーニョだ。この他にMFパウロという選手を獲得する事も決まっていた。 だから、選手名鑑ではブラジル人しか掲載されていない。だが、レギュラーの抜けた合宿には新たに3人の外国人が参加していた。オランダ人コーチのバルコムコーチ(読売時代に監督経験有り)、FWマイヤー、DFハンセンである。チームはJ開幕2週間前にオランダサッカーへ意向したのだ。この案を唱えたのは初代監督松木安太郎と 小川社長である。5人しか登録出来ない外国人枠に7人も獲得したのだ。そのため、アモローゾはサテライトへ落とし、DFダビは開幕前に解雇とし5人としたのだ。

・93年前期途中、監督のチームに対する考えに不満を持ったDF加藤 久が移籍を表明。ラモスも試合をボイコットし、監督と対立した。結局、加藤 久は清水へ移籍。しかし、ラモスとは前期終了までもめていたのだ。そのラモスを納得させる意味でブラジルからMFビスマルク、MFパウロを獲得し、南米サッカーへの 転換を約束させた。南米なのか欧州なのかで反発したFWマイヤーは10試合で解雇、ハンセンにいたっては18試合に出場しポジション争いに敗れ解雇。完全にブラジル人体勢で行くつもりだった。

・だが、何故かハンセンを解雇しといてオランダ人DFロッサム獲得。これは単にハンセンよりも上手かったからという話だが、まぐはもう覚えていない。結局、柱谷をボランチに上げて、ペレイラ・ロッサムというCBコンビが絶妙だったらしい。 この守備力のおかげでニコスシリーズを制覇するに至ったのだ。ちなみにMFパウロはロッサムとのポジション争いに敗れて帰国してしまった。

・だが、チャンピオンシップでまたもオランダ外し敢行。第1戦で巧みな守備ラインを魅せたペレイラ・ロッサムコンビを急遽解体。帰国したはずのMFパウロを3日前に呼び戻して、チャンピオンシップ第二戦の為だけに出場。しかも、ここまで頑張ったDFロッサムはベンチ外にまで追い出されてしまい、 祝賀会も参加せずに激昂して帰国。オランダ人選手はこれで一人もいなくなってしまった・・・。フロントの迷走が最後まで鼻についたシーズンであった。サカマガではJリーグの未来を考えても、しっかりとしたフロントを持った鹿島が優勝して欲しかったとまで言われる始末。優勝したのに「オランダ外し」 ばかりが紙面を賑わせた。

・93年12月、早くもヴェルディ内紛劇。監督が信用出来ないとしてラモスがオファーのあった平塚に移籍をすると発表。しかし、多額の契約金でラモスを黙らせた。その後、阿部、加藤、保坂、菊原、石塚、富樫らが移籍を表明するなど、年末まで荒れに荒れた。表向き黄金時代も、中身は最悪のシーズンでした。




2代目監督ネルソン・バプティスタ・ジュニオール「ネルシーニョ」
種類2タッチサッカー
結果1995年サントリー:2位/16勝10敗
1995年ニコス:優勝/19勝7敗
1996年:当時6位/5勝4敗
特徴 ・松木を影で操っていた存在が前へ出てきた。それまで守備の練習を一切しなかった松木体制だったが、まず第一に守備を立て直す事に重点を置いた。そのせいか、最初のシーズンでは連敗も続き攻撃陣不振となってしまった。今、考えるとここで最下位になった時によく監督を解任しなかった ものだと不思議でならない。結果、解任しなくて良かったんだけどね。負けていても信頼出来る何かがあったのだろう。試合中はダイレクトでのパス回し、ショートパス、ロングパスなど繋ぐサッカーなどを指導。クリーンなサッカーで早いプレスながらも相手に触れないでボールを奪う事を徹底。 ゾーンプレスとは言っていないのに結果そんな感じのディフェンスだった。
成績
1995年
・序盤はなかなか勝てない状態が続いたのだが、中断明け意向は無類の強さを発揮して2位へ。後期は帰ってきたカズの影響もあり優勝。名古屋、清水との壮絶な優勝争いを圧倒して抑え、ヴェルディ史上最強の強さを誇示してみせた。まぐは今も昔もこの95年後期が一番強いと思っております。 意外と新人も1試合に一人づつのペースでベンチ入りさせるなど新人育成もそこそこだった。
成績
1996年
・滅茶苦茶強かったのに何故か成績が芳しくなかった。それでも辞任する程弱くなかったのに成績不振を理由に辞任。確か、負けた事の無かったガンバに負けた後に発表されたと思う。だが、裏では日本代表監督就任最有力だったのにも関わらず、当時の日本サッカー協会会長の独断で加茂に 決定したという「腐ったミカン事件」が原因だと言われている。ベンゲルなら納得したのにねぇ・・・。
【1995年ベストイレブン】   *クリックで開きます





2代目監督代行岸野靖之
種類ユースっ子サッカー
結果1996年:当時7位/1勝2敗
特徴 ・ネルシーニョ監督の辞任を受けて3試合だけ代行を努めた。その3試合の成績は1勝2敗だった。自分が最も信頼出来る選手として、中学生時代から指導していたMF菅原をスタメンで起用するなどユース上がりを起用した。可哀想な事にレギュラーメンバーがこぞってケガをしてしまい、若手ばっかりのメンバーだった 事を覚えています。どんなサッカーだったかって・・・知らないです。覚えてないっす。ただ、ユースではアツイ監督として有名で相手ベンチにまで指示が伝わってるかもしれない程大声を出す監督です。





3代目監督エメルソン・「レオン」
種類パワーサッカー、中盤省略サッカー
結果1996年:7位/13勝5敗
特徴 ・とにかく激情派。オールスターではJリーグ経験の無いアルジェウなどを監督推薦で3人も選んだほど。「好きな選手を選ぶ権利が監督にはあるはずだ。」など数々の名言を残した。ボールを奪ったらとにかくマグロンへ狙えというサッカーがマスコミ各社に非難され、つまらないサッカーと叩かれてしまった。 だが、まぐはそんなに悪いサッカーとは思えなかった。別にパワープレイでは無く、前線からの早いプレス、激しいマーク、相手を吹っ飛ばそうが押し倒そうがお構いなしのディフェンス。そして、奪ったらマグロンへ預ける。そして、一斉にヴェルディの選手達が右から左から波の様に押し上げる。 この押し上げがまた見事で一度、キープしてからはいつものヴェルディで繋ぐサッカーと中央突破。だけど、攻めあぐねたらマグロンへ放るというのが嫌がられたのだろうなぁ。迷いが無いし、なによりチームがどの方向に従って戦ってるのが明確だった。マグロンの頭ばかり注意してるとカズにやられるというカタチの方が 多かったしね。しかも、カズは得点王にも輝き、カズにとってはレオンサッカーは大歓迎だったことになる。
成績
1996年
・若手をノせるのが非常に上手かった。ヤングヴェルディだけで見事ナビスコカップ決勝まで進出させた手腕はお見事。しかし、最初はビスマルクでさえベンチに追い出される始末だった。その後、カイコからポジションを奪ってビスマルクがレギュラーに収まると、ショートパスの連続からゴールというカタチも上手く行く様になった。 最終節では優勝をしたはずの鹿島相手に5−0の圧勝ゲームをしてみせ、どっちが優勝チームだよという雰囲気にさせた。結局、カズは得点王もマークしましたとさ。だけど、天皇杯優勝後何故か解任・・・何がいけなかったのでしょうか。次の年を楽しみにしてたのを思い出します・・・。
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4代目監督加藤 久
種類コンディションサッカー
結果1997年:当時16位/4勝8敗
特徴 ・調子の良い者を使うと豪語し、名前だけでスタメンを決める事は無いとコメントした。これがまた、余計な事を言ってしまった。練習試合でもJリーグでも日替わりメンバーというどっかの人と同じサッカーを展開。確か、93年はその監督さんと対立して移籍した割に同じサッカーを目指しちゃう という摩訶不思議な監督さんでした。個人の能力を把握せず、メンバーは変えて、レギュラーと控えの差を分からないしで迷走。結果、監督としては松木と同レベル扱いで終わってしまった。
成績
1996年
・才能ある若手を多く抱えるチーム。そのため、加藤 久が任されたのは若手育成と結果を両方求められた。ただでさえ、監督未経験なのに両方も求めるなっつーの。でも、長い目で見るために任期は2年。当時の社長が「ヴェルディを外国人指導者の受け皿にしたくない」と間違った方向性を建ててしまったのだ。 ビスマルク退団の穴埋めに前園獲得という事もあってか、当時のまぐの力では実力を計る事は出来なかった。それでもそこそこ活躍しちゃう選手が多かったので4回も勝てた。活躍したのはいずれも永井や阿部とかだったっけ。その後、やり方を変えた方がいいのでは?という記者の質問に「やり方は変えない」という一言を残して辞めちゃいました。新人の山田、中盤ではポストビスマルクとして長谷部・永井、中盤の底には菅原など 積極的に若手を起用し続けたが、GKまで日替わり(新吉・大石・本並・小針)だったので成績も伸びなかった。その後、エスピノーザと二極体制というどっかで見た様な体制に腹をたてて辞任。その後、加藤 久だから戻ってきたという選手達は一斉にいなくなってしまった。ある意味、松木同様のひらめきサッカーだった気もする。最後にフォローすると、カズとアルジェウが負傷で間に合わなかったという事も付け加えておこう。
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5代目監督バウディール・アタウアウパ・ラミレス・「エスピノーザ」
種類愛サッカー?
結果1997年前期:16位/0勝4敗
1997年後期:12位/6勝10敗
特徴 ・「愛だよっ 愛!」で一躍怪しい監督と認識されてしまう。チームを強くするために必要な事は問われたら、迷わず「愛」と応えた。 ブラジルでは有名で名将の1人とまで扱われ、「ダメチーム」を建て直す手腕にかけては一流だそうだ。だが、そんな建て直し監督でさえも 建て直すことが出来なかった。どんなサッカーをする人だったのかも忘れてしまった。それだけ、ネタしかなかったのだろう。
成績
1997年
・加藤 久から代わって一体どんなサッカーをするんだろう・・・って同じかよっ! 全くもって加藤 久サッカーを受け継いじゃった。GKも日替わりでメンバーは固定しないという最悪サッカーへ。サッカー自体の内容はまぐも見に行ってない程、酷かったので覚えてないです。 ワールドカップ最終予選とも重なり、中村、北澤、カズの3人がいないので迷走しまくり。左サイドのポジションを山田、土屋、廣長、重田の4人交代でやるという酷さ。良かった時の選手でさえ、次には代えられた。こんなに酷かったのにずっと使われた選手はDF石川、アルジェウ、ヤス、菅原ぐらいです。 しかも、終盤にはリーグ戦そっちのけで「天皇杯に向けて頑張る」とかコメントしたり・・・ダメだ、こりゃ。  *しかも、天皇杯前に解任されてます。
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6代目監督川勝良一
種類川勝男塾?、がむしゃらサッカー
結果天皇杯四回戦敗退。
特徴 ・後に川勝男塾を立派に建てるのだが、それはもっと先のお話。この頃は代行と思っていたが、Jリーグ公式ブックでは代行の文字が無かったので監督扱いにします。S級持ってない場合は代行になるのかな? ま、どっちでもいいや。 特徴も何もこの当時では何も知る由も無く、へぇ〜、監督代わったんだぁ〜としか思いませんでした・・・すいませんです。
成績
天皇杯
・そもそも、2試合の天皇杯なんてよく覚えてないってば。ただ、財前がゴールを決めてるのでユースっ子サッカーを展開したものだと思ってました。ちなみにカズが脱臼したのもこの試合だね。等々力でアビスパ福岡に負けました。





7代目監督「ニカノール」・カルバッリョ・ジュニオール
種類超攻撃的サッカー
結果1998年前期:6位/10勝7敗
1998年後期:当時18位/0勝3敗
特徴 ・3トップの布陣を敷く事で超攻撃的サッカーを生み出した。真ん中に高木、右にエウレル、左にカズという最強3トップで他を寄せ付けない強さを見せつけた。まぐは嫌いじゃない監督さんだけど、守備をしないで攻めまくるという超攻撃的サッカーは「2点取られても3点取るサッカー」だったために失点が減る事は無かった。 練習でも守備を教える事は無かったので、やはり優勝を争う事は難しかった様だ。
成績
1998年
・脅威の3トップでワールドカップ中断期間までは9勝2敗の首位で折り返したほど。しかし、その後はどういう訳か急降下。残り6試合で1勝5敗・・・。その後も連敗は続いて、後期開幕から3連敗。実質、前期から6連敗で成績不振を理由に辞任してしまった。ただでさえ、97年はグダグダなサッカーしちゃったんだから、 全然成績不振じゃなかったのに・・・。しかも、後期開幕は外国人全滅。3人同時にケガしちゃった・・・だから、ニカノールのせいじゃないんだー。
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8代目監督川勝良一
種類川勝男塾?、がむしゃらサッカー
結果1998年後期:17位/3勝11敗
特徴 ・主に自分が信頼できるユースっ子を大勢使う事になった。外人3人はケガで試合に出れないので、若手や新人などを多数使う事になったのだ。それゆえ、どういうサッカーをしたいのかは余り分かりませんでした。 システムはニカノールのを継続せずに4−4−2スタイルへ。メンバーを固定してやりたいが、思うように組めなかった様な印象を受けた。結果は悪かったが、どうしようもないという感じも受けた。
成績
1998年
・山口、長田、菅原などユース勢に加えて、土屋、石塚、米山などを起用し続けた。その代わり、ケガも重なって高木、カズ、外人3人などを起用出来なくなった。そのせいか、成績も芳しくなく3回しか勝てずにシーズン終了。 前園だけはサントスへ移籍した。その見返りにCBダニエルをトレードしたが、エンリケが復帰したら起用もされなくなった。 この年だけ行われたJ1参入決定戦に参加していたら、間違いなく落ちていたかもしれないぐらい低迷した。この翌年、親会社撤退により11人の解雇(薮田、増田、菅原、重田、大石、ラモス、柱谷、財前、ヤス、成太、渡辺)が行われた。 カズはクロアチアへ、ラモス・柱谷は現役引退となってしまった。
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9代目監督松永英樹・・・と李 国秀総監督
種類アプローチコントロール
結果1999年前期:2位/11勝3敗1分
1999年後期:10位/6勝8敗1分
特徴 ・まぐは最初、林、山田、米山ら桐蔭卒を指導した経験のある李サッカーに戸惑った。聞き慣れない言葉の羅列、「アプローチコントロール」「言語の統一」「パスコミュニケーション」など語り尽くせない程の指導方法でヴェルディを引っ張っていった。 その練習方法は分かりやすいながらも厳しく、練習中にタイミングを重視し、「何でそこでやるの?」など頭を使うサッカーを求めていった。数々の名言も残し「サッカー>蹴球>玉蹴り」の基準を明確にしていった。その戦い方は他チームにとって未知の存在。 勝ち負け以上の何かを求めるチームに進化させた。対して、松永さんはというと・・・物凄くポルトガル語が堪能だという事ぐらいしか知りません。
成績
1999年
・アプローチコントロールは脅威でどこのチームも苦戦を強いられた。J2降格有力候補のチームは前期で2位を果たして安全圏へ。新人のDF中澤を厳しく鍛え上げて成長させていった。その中でも圧巻なのは浦和でサテライト生活を続けていたMF桜井の獲得。 全く実力を知らなかった桜井の獲得はレギュラークラスの選手がまっとうな評価基準の中にいないというJリーグの問題へと発展した。セカンドは10位で終了するも、非常に満足したシーズンであった。
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10代目監督張 外龍・・・と李 国秀総監督
種類アプローチコントロール、金 鉉錫充電サッカー
結果2000年前期:9位/7勝1敗7分
2000年後期:10位/5勝7敗3分
特徴 ・この年はそれまでのブラジルサッカーから、韓国サッカーへと転換。それでもサッカー自体は李サッカー。なぜなら、パワー&スピードが韓国サッカーだと思っていたまぐには衝撃的なFW金 鉉錫の獲得があったからだ。チームの結果は出ないまでも金 鉉錫のゴールは その後も量産し続けて得点王にまでなってしまうかという程の得点力を披露。相手を反則ではなくボールを奪う事で定評のある米山のフェアプレー賞は李サッカーの象徴でもある。秋田に言ってやれ秋田に。対して、張氏はまるで現役の様に選手と一緒に汗を流している姿が印象的。 ただ、私服姿はマフィアっぽいので怖かったなぁ。
成績
2000年
・成績自体は中位をキープし続けたせいか、自然と降格争いという自覚は無く一年を通して安心して見られた。ただ、途中の段階でS級ライセンスを持っていない李 国秀が監督を務めているという状況をうとましく思った者達がいた。それは日本サッカー協会。来期の李サッカー継続は S級を獲得した場合のみ継続可能としてきたのだ。これにライセンス制度を全く意味の無いものとして反発し、李サッカー最後の年となった。来期は東京に移る事も松木氏の就任も知ってまぐにとっては感慨深くこのシーズンを見ていた。 ヴェルディで一番指導者っぽかったなぁ。
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11代目監督松木安太郎
種類松木ひらめきサッカー
結果2001年前期:最下位/4勝10敗
特徴 ・基本的にコンセプトは無く選手をころころと替える監督で有名。システムも練習無しでいきなり4バックから3バック、2トップから3トップに変えるばかりか、選手も新人抜擢(トップ練参加せずに)ばかりで1シーズンを通して固定することはなかった。 練習も何を目的にしている練習なのかは分からず、どういうサッカーをしていきたいのかすら明確に出来ない。勝った試合のメンバーを次の試合には大幅に替えてしまう迷走もしょっちゅうある。
成績
2001年
・東京移転一発目はやはりヴェルディを最初に率いた松木氏にゆだねる。ってか、おい。松木が最初に率いたシーズンでどうなったか忘れたのか! ってぐらいにヴェルディサポの大半はうんざりしたはずだ。93年に行った「松木ひらめきサッカー」は継続され、二年間かけて築いた李サッカーはわずか 3ヶ月で崩壊した。「古き良き時代」「昔の名前で出ていますもう一度」を合い言葉にもう一度黄金時代を築こうとしたらしい。人に付く守備であるマンマーク、サイドは使わず中央突破、「2点取られたら3点取られるサッカー」で爆発。 ちなみに勝った試合の内、2試合は「古き良き時代」を知ってる武田だけが活躍してくれましたとさ。もちょっと早く解任して欲しかったです。貢献できたのはアツ獲得だけかな。
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12代目監督小見幸隆
種類石塚中心サッカー未遂
結果2001年前期:最下位/0勝1敗
2001年後期:9位/6勝7敗2分
2002年前期:最下位/0勝5敗
特徴 ・石塚を中心とするサッカーをやりたかったらしい。個人的に選手の選び方は間違いなく、あとはしっかりとサッカーを教える事が出来ればそこそこの監督さんだったと思う。松木、久と比べたら遥かにマシなんだけど、練習ではどんなサッカーをやりたいのかは伝わらなかった。 ひらめいてメンバーをころころと変える事をしなかっただけでもマシな方だね。基本的に好きなのは4−4−2、中央突破というか攻めは個人技に任せるという感じ。ただ、選手交代のタイミングなどは非常に遅かった感があった。
成績
2001年
・石塚中心のサッカーを公言する小見さんだったが、事実上、石塚サッカーは見れませんでした。後期開幕と同時に石塚骨折で絶望。やりたいサッカーは出来なかった。結局、成績も伸びずに降格ラインをひた走っていた。最後には 現役ブラジル代表のエジムンド獲得で降格を免れただけ。
成績
2002年
・開幕からの合宿でも昨年同様、練習で何をしたいのか分からず。左の相馬をより活かすために「菊池利三オトリサッカー」で開幕を迎えるものの1試合で崩壊。「頭脳派スリー」(米山・林・川口)は何とか堅守を誇り最低でも1失点で抑えていた。ところが、 京都戦で攻撃的な4−4−2にするために頭脳派スリーを辞めた。これが結局、小見崩壊の試合となってしまい解任。試合終了後のコメントでブラジル人のせいにしたのはまずかった、より印象を悪くしちゃったしね。 そもそも、ブラジル人は開幕5試合がキャンプインだと思ってやらないと。ベタ休みがモットーですから。コンディションなんか上がりませんよ。
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13代目監督「ロリ」・パウロ・サンドリ
種類バランスサッカー
結果2002年前期:12位/5勝4敗1分
2002年後期:4位/8勝5敗2分
2003年前期:最下位/1勝6敗
特徴 ・バランス型サッカー。3−6−1(本人曰く、3−4−3らしい)という変則的なシステムを好むが、選手の力量を見抜き配置するという事で4−4−2も行う。選手の実力を順序よく配置してしまうので、本来のポジションじゃない選手でも優先して起用する。ただし、正確に練習で何度も実験するのも特徴。 あとはどういうサッカーを目指しているのかが明確になれば名監督になれたかも。アクシデントに対応した選手交代要員なども見所の一つ。新人や若手を練習試合などで試して、実力を発揮したり結果を残した場合は実戦で抜擢した。また、同じ能力の選手なら若い選手を好んで起用する事も多かった。 そのため、新人選手はやたらとデビューすることが出来た。しかし、ベテラン選手にとっては不遇の監督であったため、ロリ就任の2002年を最後に北澤が引退した。良くもなく、悪くもない、普通の監督というイメージか。ま、前年まで酷すぎたってのもあるし。キャラが濃いため、まぐとしては好きな監督の部類に入る。
成績
2002年
・開幕5連敗から引き継いだ。すぐに結果を出して手腕を発揮。3−6ー1や4−4−2を要所要所で使い分ける。石塚・前園・西田などを構想外にし、義成、隼磨、富澤、大悟、一樹、玉乃などを抜擢した。そのほとんどがエジムンドを中心にしたサッカーで成功を収めただけに、 結果は4位で終わった。来年は一体、どうなるのだろうか。本当の監督の実力が問われる。
成績
2003年
・自ら獲得して欲しいと進言したラモン・鈴木に加え、元J得点王エムボマ、平野を獲得。タイトルの内、1つを獲得と名言した。しかし、シーズン開始と同時にレギュラーメンバーに相次ぐ負傷発生。満足にメンバーも組めず、頼みのラモン・エムボマでさえも戦列を離れた。 持ち前の「やりくり上手」で2勝したものの、ナビスコ・Jでいずれも連敗。勝てる試合で分けてしまった神戸戦を境に迷走。敗戦を選手の責任にしたり、システム変更を前日にしてみたり、相手にあわせた戦術も大失敗に終わった。ピンチの際に建て直すのが苦手で時間がかかる監督のうえ、 過密日程のゴールデンウィーク期間中というのも追い討ちした。磐田相手に2−7で大敗して解任。結果的に米山の負傷で守備の崩壊を建て直せなかったのが原因。ま、仕方ないさ。この年も根占・一柳などの若手をデビューさせた。
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13代目監督代行「レアンドロ」・アウタイール・マシャド
種類熱血サッカー
結果2003年前期:14位/2勝1敗
特徴 ・ロリ監督のもとで「下っ端」「パシリ」的存在のコーチとして来日。岸野さんよりも実権が無いんじゃないかというぐらいの人でした。それでも選手からは慕われていたらしい。某外国人タレントにも似てたんだっけか? 監督としてはケガ明けのレギュラークラスの選手をただ配置するだけでよかったので、比較的ロリさんよりは楽な試合が出来ただろう。ただ、ハーフタイムなどで熱血的指導を施し、「自分が何でサッカーをやるのか考えろ」 などと言った哲学風監督だったみたいです。でも、何故か顔が面白キャラ系なんだよなぁ。
成績
2003年
・上記のロリさんが磐田相手に2−7で大敗した事で代行監督へ。ただ、監督の資格をもっていないという事で3試合のみの限定監督。監督としての内容はケガ人がほぼ試合に出れるだけのコンディションに戻ったおかげでメンバーも固定。エムボマ・桜井・ラモンを中心に攻めさせ、後のメンバーは 基本的に全員守れという明確な戦術で乗り切った。長期的な監督では無い以上、最善の方法を選んでくれた様に思える。そのまま、継続して監督をやるタイプではないな。でも、代行監督としては良かった方だと思いますよ。





14代目監督オズワルド・セサール・「アルディレス」
種類イングランドスタイル、パスサッカー、プレッシングサッカー
結果2003年前期:10位/3勝1敗1分
2003年後期:9位/5勝4敗6分
2004年前期:9位/5勝6敗4分
2004年後期:9位/6勝7敗2分
2005年:17位/3勝7敗7分
特徴 ・元清水・横浜Mなどで監督を経験。それだけでなく、いずれも優勝に導いている。組織サッカーを求める反面、頭はやわらかくヴェルディに3−5−2を推し付けずに4−4−2へ戻したりもした。基本的にヴェルディらしいサッカーを引継いでくれているのも 好印象。ボールを繋ぐ事を第一に考え、細かく繋いで崩す様は「古き良き時代」を超える期待感さえ持てる。中央突破、繋ぎ、個人技・・・ヴェルディらしいサッカーを排除せずに指導している。天皇杯優勝のサッカーは前線からの果敢なプレッシングサッカー、高い位置で奪いテンポの良いショートパスからの 組み立てでゴールを陥れる様は見事だった。*ただ、控え組をしっかり見ないとか、紅白戦でレギュラー組をケズると怒るなど若手の育成はしない監督のようで。
成績
2003年
・前期11節から監督へと就任。試合まで1ヶ月期間が空いていた事でシーズン開幕の気持ちで迎えられた。就任してから連勝街道に乗り、開幕から13試合連続無敗の名古屋に初黒星を付けるなど波に乗った。後期は残り2試合目まで優勝争いに絡むなど順位以上の 好成績を残した。順位こそ9位だが、ケガ人続出さえ無ければ上位に居たであろう。成績意外では山田卓也を攻撃的な位置に配置し成功、小林慶、林、平野などベテランを起用していった。ロリと対照的な起用法でもあるが、不満はなく納得の行くメンバーではあった。 就任してから「ヴェルディを本来あるべき位置へ」を合言葉に新しいヴェルディを築き上げようとしている。
成績
2004年
・昨年の好成績から一転苦難の道。開幕からキーマンの山卓、ボマがケガで離脱。開幕から連敗。その後従来の4−4−2を捨て、3−5−2へ変更すると本来の力を発揮。その中でオジーも15歳の森本、大卒新人の戸川、李 康珍などをデビューさせる抜擢でやりくり。 反面、ボマの退団、ウーゴの控えなど外国人選手は軒並み起用せず。後期にはモンペリエの廣山も獲得したが戦力はダウン。狙っていたナビスコも準決勝の前半で0−3。さすがのまぐも。しかし、転機が訪れます。後半で3得点をあげて若手が才能開花。 代表で起用されずチームでの練習がなかなか出来なかったアツを外し相馬を抜擢すると大活躍。おかげでアツは退団してしまうも天皇杯を制覇。苦しい今シーズンに結果までもたらした。賛否両論あるだろうけど、ヴェルディ史上名監督の一人になってきた。
成績
2005年
・地元大宮へ移籍志願した桜井、天皇杯優勝メンバーの富澤、飯尾。ウベダなど放出が目立った為に戦力ダウンで始まったシーズン。ブラジル最多得点で得点王に輝いたワシントンの獲得も選手層の薄さは否めず。それでも、ゼロックス杯をPK戦の末にタイトルを獲得し、順風満帆の立ち上がりかに思えた。 リーグが始まっても勝ちきれない試合が続き、ケガ人続出なども相まって満足なスタメンを組めなかった。その後、システム上(3−1−4−2)の欠陥を修復できず、大量失点試合を連続で起こしてしまう。5失点以上の試合はなんと5試合もあった。就任当初からの課題である守備の向上は果たせず、約2年間を持ってしても ヴェルディを変える事は出来なかった。
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15代目監督石崎信弘
種類スカウティングサッカー(相手の長所を消す)
結果2005年:17位/0勝1敗
特徴 ・そもそも、山形・大分・川崎とJ2の指導者として有名。いずれも昇格争い出来る程までに成績を上昇させた。しかし、昇格出来る2位以内には入れずに万年3位になってしまう事から悲劇の監督となってしまう。 ここ最近は清水でコーチをしたりとJ1のコーチとなって勉強をしているのかもしれない。戦術は相手の長所を消すサッカー、守備の構築に優れており完封するのはお手の物。ただ、相手が守備固めに入ると崩せないというのが弱点でもある。相手の長所が守備じゃ消せないからね。
成績
2005年
・HOT6での大量失点劇で解任されたオジーの後任探しの間、監督へ昇格。新聞などでは監督代行となっていたが、J公式では監督となっていたので15代目監督とします。立て直す時間があまりにも短い広島戦のみの采配なので評価は出来ず。ただ、その短い期間でレアル・マドリード、フィオレンティーナ戦に2連勝。 結果論ではあるが、このまま後任を続けていたらきっと残留出来たかもしれない妄想でいっぱいである。





16代目監督オズワルド・フメイロ・アウバレス/「バドン」
種類放任主義、選手の自主性を促すサッカー
結果2005年:17位/3勝8敗5分
特徴 ・両サイドを高い位置に配置して攻めるサッカーを好む・・・らしいのだが、そんな事はなかった。実際、練習でもぼーっと見てるだけで指導らしい指導は無かった。おかげで課題だった守備の構築は全く出来ず、むしろ傷口を広げていった。 あまりにも何にもしない指導だったせいか、天皇杯以降はディフェンスコーチとして石崎監督が指導にも加わった。ってか、置物かいっ!!やばいぞ、ヴェルディ史上最低ランクの監督だったかもしれない。うん、ジーコ並だ。
成績
2005年
・監督がかわったという特効薬のおかげか選手が今まで以上のパフォーマンスでプレー。清水、鹿島戦で2連勝。これで全てが上手く行く様な気もしたが、サッカーとはそんなに甘いものでもなく・・・攻めても攻めても点が取れずに0−1負けを喫した頃から メッキが剥がれて来た。結局、サッカーにならずに連敗。その後、降格街道まっしぐらとなっていってしまった。今、考えてみるとこの人を雇った人と同じサッカーだったかもしれない。同じ穴のムジナか・・・
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17代目監督ラモス瑠偉/「ルイ・ゴンサウベス・ラモス・ソブリーニョ」
種類気持ちの問題、かつての黄金期サッカー
結果2006年:7位/21勝19敗8分
2007年:2位/26勝11敗11分
特徴 ・堅い守備からボールを奪いサイドを早く繋ぎゴールを決めるサッカー。これが大まかにラモスがやりたいサッカー。とはいえ、これを戦術的に指導するという手法を全く取らず。これが出来る出来ないかはあくまで選手次第。そのため、サッカーがうまく運ばない場合は選手を入れ替える事で乗り越える。 そのため、1年を通して選手を獲得しまくるシーズンとなった。ラモスサッカーにおいて沈滞ムードに陥った場合は選手補強が濃厚なので気をつけて。更に3試合連続で同じスタメンという試合は無かった。必ずどこかのポジションが違っていた。酷い時には両SBそっくり交換とかもあった。結果的に7連敗はヴェルディ史上最多タイの記録。 フッキ、ディエゴ、名波、服部、土屋らを擁しての連敗という事もあって、松木らに並ぶ「ヴェルディ史上最低監督」の一人という称号が消える事は無いだろう。更にそこで辞任や解任をしなかったのも拍車をかけた。選手としてはレジェンドであり、最大限のリスペクトを持って迎えるが、監督としての才はまた別の話。
成績
2006年
・予想以上に何も出来なかったなというイメージ。個人的には仙台の都並さんと同じぐらいの成績だろうと予想したが、順位の面では大きく下回った。 最終的に昇格争いというもの自体にかかわる事すら無かったシーズン。バイタルエリアのガラ空き、セットプレイでの失点、試合開始直後の失点、全体的に崩壊したままだった守備など課題を1年通して修復すら出来なかった。 さすがにこれには監督の力量を問われるレベルのものであったが続投した。ラモス監督の練習などを拝見すると、「自分が出来る事を当たり前だと思う事」が挙げられる。これしきの事が何故出来ないのか、トラップ1つ乱れただけで激昂していた。 ラモスのレベルになんて到底無理なのだが、出来ないのは「気持ちの問題」という精神論で解決した。何を勘違いしたのか、昇格出来なかった原因は監督もフロントも選手の責任という事で一致したようだ。来期はJ1レベルの補強でバックアップ体制も充実、これで言い訳が出来なくなった。
成績
2007年
・元日本代表の10番名波、W杯経験者の服部、J1レベルのDF土屋、柏からディエゴなどJ1レベルの戦力を補強した。日本屈指の個人技を持つ彼らに フリー戦術を採用し、魅力溢れるかつてのサッカーを取り戻そうと試みた。事実、シーズン前のスペシャル番組で公言していた。開幕数試合こそ、個々の才能で勝利を重ねてきたが、第1クールでもろくも夢破れた。 個々がバラバラに活動し迷走、落ち着きを見せたかと思えば誰も走らない消極的なサッカー。やる事が全て裏目に出る負のサイクルは結果的に7連敗という数字に表れた。草津の秋葉に屈辱的なコメントを残されたりと散々。 監督解任こそしなかったものの、7連敗後以降のサッカーは事実上の監督業明け渡しに近いものだった。守備的サッカーかつ攻め手をフッキ1人に担い、中盤や最終ラインを数で制圧する現実的なサッカーへチェンジ。 第2〜第3クールで見られた3−4−1−2、第4クールで見られた4−2−3−1という布陣で他を寄せ付けず、借りを返した8連勝で昇格を果たした。シーズン終了後に監督業を辞任、エグゼクティブディレクター(専務)へと昇格した。
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18代目監督柱谷哲二
種類現実的なサッカー
結果2008年:17位/10勝17敗7分
特徴 ・2007年の途中からシステムをころころと変更し、攻撃はほぼフッキとディエゴに任せるという作戦は柱谷さんによるものかと妄想してます。やりたかった理想のサッカーは細かく、早く、前線へ繋ぐサッカー。そこから先はディエゴの個人技に頼る。理想のサッカーは開幕3試合、フッキ離脱後の数試合で見られた。あれをコンスタントに1年通して出来たら、さぞや楽しいシーズンだったろうに。ただ、終盤でのサッカーにはいささか疑問が残り、ハプニング性には弱かったと見られる。システムを変えるも選手は変えず、柱谷さんの思うレギュラーの選手を当てはめる事で打開を図った。誰か一人が欠けただけで代替になる事は無く、また1から作り直す作業をさせられたのが弱点。組織的に見えて偶然の化学反応が成した産物だったのかもしれない。
成績
2008年
・楽しいサッカーを実現させる事も出来たが、終盤は監督の力不足を感じざるを得なかった。選手交代、ハプニングへの対応、やりくり上手さなどは見られなかった。現場とクラブとの間でコミュニケーション不足により、満足にチーム運営を出来なかったそうだ。シーズン途中にも欲しい選手を獲得してくれないなど不満もあったらしいが、真相が報道された通りだとするならば補強があろうが無かろうが既存戦力で何とかしつつ残留してるチームもあっただけに残念でならない。残留降格に関しては終盤でのディエゴ・ソウザ出場停止が全てだった。彼ら(フッキやディエゴ)に頼らざるを得ないチーム作りをしてきた事と、J2時代にスーパーゴールだけで勝ってきた報い(スーパーゴールを食らいまくった)を受けたシーズンだった。更には降格争いでドン底から這い上がってきた千葉の大健闘も敵ながら拍手を送るしかない。柱谷監督にとっては不運というしか無い。
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19代目監督高木琢也
種類ハマナチオ
結果2009年:10位/17勝18敗9分
特徴 ・横浜FCの監督時には、急遽代行として指揮を執ったにも関わらず就任後15試合負け無し。「カテナチオ」さながらの「ハマナチオ」で横浜FCを昇格させた。人数をかけて守備を厚くし、リスクを負わずにサイドから攻めるスタイル。徹底したカウンターサッカー。 非常に現実的なサッカーで昇格したのだが、今年のヴェルディにおいては守備に重きを置いていない様に見える。一応、サイドを崩したいサッカーではある様だ。
成績
2009年
・4−1−2−3のシステムを採用し、サイドを崩すサッカーを理想に掲げた。だが、早々に4−4−2へと変更。さっさと諦めた様だ。序盤こそ、ケガ人の続出も重なり結果が出ない時期が続いた。更にはボールキープを信条とするレアンドロ、最終ラインの裏へ飛び出したいラインブレイカーの大黒を使いこなす為「ボールキープ」に妥協した様だ。おかげでチーム全体のバランスも良くなり、中盤はケガ人復帰も重なり昇格争いに参戦する6連勝で盛り返した。 結果的には、直接対決の甲府戦でモチベーションを保てなくなり、甲府戦以降は下降線を辿る事となる。色々と打開を計ろうとあの手この手を試してみるが、結果どころか内容まで失ってしまい最下位チームの成績へと低迷。天皇杯でも初戦で敗れた事で解任が決まった。まぁ、他のチームでなら活躍できるさ。
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20代目監督松田岳夫
種類自由になれよ
結果2009:10→7位/4勝1敗2分
成績
2009年
・天皇杯で敗れた事で高木監督が解任。その後任として、ヴェルディユース監督だった松田岳夫氏が引き継ぐ事となる。高木監督時代に植え付けた意識を一度リセット。選手達に自由を与え、攻撃の面において枷が外れたかの様なサッカーを魅せた。ポゼッションを認めつつもサイドへの意識を高めた終盤の戦い方は、高木監督のサッカーを一応は踏襲していた。サイドで行き止まりになる事が多く爆発しきれないで居た河野をFWで起用したり、井上 平、高木俊幸(当時ユース3年)にチャンスを与え新しいヴェルディを予感させた。 7試合を行い1敗しかしないなど、残り少ない試合ではあったが最後まで楽しませてくれた。この年の終盤、親会社である「日本テレビ」が経営から撤退。ユースOBでもある崔会長が新たに出資者を募り、経営を引き継ぐ事が発表された。
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21代目監督川勝良一
種類川勝男塾
結果−ヴェルディ川崎監督−
1997年:天皇杯四回戦敗退
1998年後期:17位/3勝11敗

−ヴィッセル神戸監督−
1999年前期:12位5勝9敗1分
1999年後期:7位7勝5敗5分   *(現在でも神戸史上最高順位)
2000年前期:7位7勝7敗1分
2000年後期:14位4勝11敗0分(年間13位)
2001年前期:10位6勝7敗2分
2001年後期:13位3勝7敗5分(年間12位)
2002年前期:13位4勝10敗1分

2003年:法政大学コーチ
2006年:アビスパ福岡監督
2007年:法政大学コーチ

−東京ヴェルディ監督−
2010年:J2/5位17勝12敗7分
2011年:J2/5位16勝11敗11分
2012年:J2/7位20勝16敗6分
特徴 ・神戸時代では数々のネタを残した人物。「川勝男塾」「全員守備」「和多田ロングスロー」「ロングボール」「オゼアス大作戦」「神戸が本気で守ったらJ最強」などなど。中には意味すら分からない言葉もある。GKの某選手に体罰を与えた事で問題になった事もあるが、川勝男塾と呼ばれる所以がそれかは分からない。印象としては両極端で「神戸に守備の基礎を作った」とも聞こえてくるし、「一生優勝出来ないチーム作り」とも揶揄されていた。 ヴェルディ時代では、中盤でボールを回す「ボールキープ戦術」の様な印象を持っていたが、今年のサッカーがどうなるのかはハッキリ言って分からない。川勝塾長の気まぐれで何かを発見し、またネタに走るかもしれない。
成績
2010年
・チームの存続が危ぶまれる中、チームが一丸となって闘ったものの昇格ならず。選手層の薄さ、スタートダッシュの失敗などが響いたシーズンであった。終盤にJリーグから羽生社長が就任して、チームの存続は決定。その後の成績がやや下がってしまったのは監督の手腕ではあるまい。 やっているサッカーは川勝らしい「ボールキープ」戦術。ヴェルディの理想通りのサッカーを指導してくれる優秀な人材である事は再確認出来た。ただ、やはり平本一樹左サイドバック案はやめておけばよかったと思う。
成績
2011年
・レギュラークラスと目されていた「平本」「マラニョン」「佐伯」「富澤」「森」「土肥」らが半分以上ケガで欠場となるなど、スタートダッシュの失敗はやはり毎年恒例と言っても過言ではない。ただ、その中で晃誠の穴を埋めるに至った「小林祐希」、今期のヴェルディを救ったJ2得点ランク2位の「阿部拓馬」の才能開花も手伝い昇格争いに混ざる事は出来た。 ただ、ここ一番という所で敗戦すると、次に繋がる「負け」となってしまうのがこの年の特徴か。最終的には、そういう「取りこぼし」がネックとなり5位に終わってしまった。終盤は「巻 誠一郎」を獲得して、現実的なサッカーへと移行せざるを得ない状況になった。それでも、ヴェルディらしい繋ぐサッカーで「大量得点試合」を演出するなど手腕は見事であった。
成績
2012年
・この2年間でヴェルディらしいサッカーを追及してきたが、3年目で「昇格」という絶対目標を前に「内容より結果」を求めるサッカーを選択した事が裏目に出た様な印象。高さの無かった2年間の課題を埋めるべく、シーズン途中で杉本健勇を獲得。ヴェルディらしいサッカーにもう1つのオプションを付ける意味での獲得ではなく、単純に放り込みに見えるサッカーとなってしまった。この時点では結果は出ていたが、杉本健勇のC大阪復帰以降は徐々に尻つぼみ。 天皇杯前にプレーオフ進出圏外の7位に転落して解任。前半戦は1位に居た事もあっただけに残念。
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22代目監督高橋真一郎「たかはし・しんいちろー」
種類「川勝サッカーの引継ぎ+中島翔哉」
結果2012年/7位:3勝3敗4分
成績
2012年
・天皇杯後に監督代行、監督へと就任した。残りの試合を3勝3敗4分で終えてプレーオフ進出を逃した。ユースの中島翔哉の抜擢が功績か。ロスタイムに奇跡的な同点劇を演じたりと先制点は獲れないが、最後まで諦めなかったという印象はある。ただ、リスクを封じてじっくり戦ってるのに先制点を獲れないという試合が多く、観戦していても「勝てる」という画が浮かばない試合ばかりだった。
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23代目監督三浦泰年
種類スパルタサッカー、コーチングのほとんどはピーーー(自主規制)
結果−ギラヴァンツ北九州監督−
2011年:8位/16勝12敗10分
2012年:9位/19勝16敗7分

−東京ヴェルディ監督−
2013年:13位14勝14敗14分
2014年:20位/6勝16敗9分
特徴 ・ギラヴァンツ北九州で監督を務め、1年で1勝しかしなかったチームを1ケタ順位に押し上げた。前任者の川勝監督が変則システムに弱いという事もあって、近代サッカーを熟知しているヤス監督に白羽の矢が刺さった。その手腕を買ってか3年契約の任期途中での移籍劇となった。 北九州にはヴェルディの若手がレンタルで移籍している事もあり、若手起用を推進してくれる事も期待された。欧州サッカーに精通しており、1年目は激しいプレスを中心としたボルシア・ドルトムントさながらの「ゲーゲンプレッシング」にも似たサッカーに挑戦。その後、サイドの巧みな上下動で3バックから5バック、1ボランチから3ボランチを流動的に行う 3−1−4−2も採用。当時、無敗で優勝したセリエAのユベントスが採用した事でも有名。2年目はリスクを賭けずに少ないチャンスをものにする、手数を少なくしたモウリーニョの様な高速カウンターをイメージするサッカーを採用。ただ、いずれも成功とは言えないものに終わってしまった。
結果 ・1年目から育成型路線を打ち出したフロントとは違い、北九州で子飼いの選手を5名も獲得。ベテラン、実力者であっても、自らの戦術に合わなければ「戦術上の理由」という解釈で 次々とレギュラーの座を追われた。練習も非常に厳しく、些細な事でも罵声(パワハラに該当しそうなほど)が容赦無く飛んだ。物に当たる事も多くペットボトルやホワイトボードは訴えたら勝てるレベル。 2年目はチーム事情の関係もあり、ヴェルディユース勢が大半を占める結果となった。結果的にスタメンのほとんどをユースにせざるを得なくなり、最終的にユースを知らないヤス監督に任せるのは如何なものかと論じられる事も多かった。 3年契約の影響で解任する事が出来ず(残りの契約金・途中解約の違約金を払えない為)、辞任待ちという状況が長く続いた。 しかし、急遽サポータースポンサーの登場により、違約金に相当する金額であった為に解任。後任に下部組織の監督を歴任していた富樫氏になるのは必然であった。総合的な試合内容・結果、練習における人間性・態度などを鑑みても、ヴェルディ歴代最低監督の1人になった事は間違いない。
成績
2013年
・シーズン前から不安視されていたCBの層の薄さが最後まで響いた。それを補おうと3−1−4−2のユベントスシステムでシーズンの大半を戦ったが、システムの弱点であるボランチの横、あるいはバックラインでの連携ミスを狙われての失点が絶える事は無かった。 更に北九州から引き抜いてきた選手達と、ヴェルディの選手達との連携は最後まで築けなかった。その原因として、試合中に散見される「止める・蹴る」などの基本的なボールコントロールのミスである。1本のパスをきつめに出せるか出せないかで攻めのスピードは格段に変わるものだ。 結局、最後まで相手のプレッシングより早いパスワークを構築する事は無かった。これにより、ヴェルディ史上J2最低順位という結果に終わる。
成績
2014年
・2年目はシーズン当初からユース勢やベテラン勢をレンタルなどで放出。資金が足りなかった事が想像されるが、果たして本当にそれだけだったのでしょうか。色々といぶかしんでしまいますが、試合そのものは4−2−3−1を貫き、リスクを賭けずにじっくりと戦う戦術を採用。しかし、プレスでボールを奪う事は無い上に、こちらはプレスで奪われてしまう事が多かった。 セットプレイでの失点も異常な記録を更新。J2ワーストでもあった。育成型路線で行くと銘打ったものの、まさかのJ3降格争いに巻き込まれてしまった。かといって監督を解任も出来ずにただ時間が過ぎていった。サポータースポンサーが現れなかったらと思うと、3年目までヤス監督がやり続けたかもしれない・・・。
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−讃岐問題−

*2013年、開幕前の練習試合で起きた問題の事。後半33分、讃岐の藤田選手が裴 大元選手との激しい接触により重傷。試合中も別の選手同士でラフプレーや口論が絶えなかった事から、試合途中での中止となった。後日、藤田選手の負傷が「右足間接開放性脱臼骨折」と診断された。 一部、報道では三浦監督による審判・讃岐ベンチへの侮辱行為が問題視された。

*2013年2月25日(月) Jリーグ規律委員会によると、Jリーグ規則に鑑みても罰則の適用外(練習試合だから)であると発表。だが、東京ヴェルディの羽生社長により、自主的に三浦泰年監督を開幕戦ホーム福岡戦、第2節アウェー京都戦をベンチ入り停止とした。 さらに裴 大元選手は相手選手に大ケガを負わせてしまった事に精神的ショックを受けているとして、最長でも3ヶ月間の対外試合への出場を見合わせると発表した。



24代目監督冨樫剛一
種類良き兄貴分サッカー
結果2014年:20位/3勝2敗6分
特徴 ・ヴェルディユース時代ではヤス監督と同じ3−1−4−2のユベントスサッカーを採用していた。2012年からユース監督に就任していたので、ここ2年の間で昇格したユースっ子はトガちゃんの指導の賜物である。それなら、最初っからトガちゃんで良かったね。 特徴はまたおいおい出てくると思うが、練習中、試合前に監督と選手が笑顔で話したり、試合後にすぐに若い子を捕まえてあーだこーだ話をしている風景だけでも救われる。
成績
2014年
・J3降格争いに巻き込まれた状態でユース監督からトップの監督に昇格。ヤス監督が北九州から連れて来た選手よりも、ヴェルディユース勢がスタメンを占める様になった事で昇格が決まった。 試合そのものも守備の責任を明確にし、セットプレイの守備をマンマークに戻した。たとえ、失点したとしても誰かの責任にはせずにチーム全員でさぼらない事を確かめるに留まった。これだけで失点は激減し、3勝2敗6分で残留を決めた。 試合内容そのものはヤス監督とは比べものにならないほど良質のものになり決定的チャンスは増大した。しかし、決定機を決めきれない試合が多く、勝ち試合を取りこぼす試合は非常に多かった。
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